Last Song



2004年6月8日・・・J23の父上が亡くなりました。



5月始めから入院していたものの、検査と療養が目的ということで命には別状無いはずだったのです。

「ずっと働き過ぎだったからゆっくり休みなさいね」くらい電話でお見舞いを言っておけば、
退院して落ち着いたころを見計らって遊びに行けばいいと思っていました。
電話の声は少し弱々しかったけど、特に心配しなくても良さそうでした。



J23が見舞いの電話をかけた翌日の午後。
いきなり容態が急変したとの知らせが入り、取るものもとりあえず福岡から大阪へ。

夜10:00前に病院に到着した私たちを待っていたのは、J23の家族と意識が戻らない父上の姿でした。

昨夜まで普通に電話で話していた人が、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
このまま居なくなってしまったら、突然遺された家族はどうすればいいんだろう。

病室に残るわけにもいかず後ろ髪を引かれる思いで宿泊先に向かい、
ただひたすら回復を祈ることしかできませんでした。



翌日、集中治療室に入った父上は奇跡的に意識を取り戻しました。

最初は呼びかけても目を閉じたまま手足が少し反応する程度だったのだけど、
次の日には目を開けてしっかり私たちの顔を見てくれるようになりました。

この時の安堵感と言ったら言葉ではあらわしようがありません。

呼吸補助機の関係で声を出せない父上は、筆談で意思の疎通をはかるようになりました。
いろんなことを突然思い出すらしく、いきなり質問を書いては周囲を慌てさせます。
意識を失っていた間が欠落しているだけで他の記憶はしっかりしているようでした。
こんな切羽詰った状態なのに時々ユーモアが混ざる筆談で、この時ばかりは笑ってしまいました。

容態が安定したのを見届けたので、私たちは福岡に戻ることにしました。
何もかも放り出したまま駆けつけたのを思い出して苦笑いできるほど、心にも余裕が戻ってきていました。



それから2週間後に父上を見舞うと、見違えるほど元気になっていました。

カタカナだけだった筆談に難しい漢字が踊り「さすがは文学者」と感心するほど綺麗な文字に戻りつつあって、
ベッドの角度や体の位置にもこだわりが出てきたらしく頻繁に体を動かしたがります。
父上の回復は素人目にも分かるほど確かなものでした。

もう大丈夫。
あとはゆっくり休んで、悪いところを治していけばいいんだ。
そのうち呼吸補助機をはずして声が出せるようになるだろう。
どんな話が出てくるか楽しみにしておかなくちゃ。

 「また来るから」

そう言ってJ23と私が父上の手を握ると、嬉しそうに笑ってくれました。
毎週は無理でも1週間おきに見舞うつもりで病室を後にしました。



6月7日の夜、J23は父上の今後について関西の家族と電話で話していました。
回復して退院できるまでの期間が読めないので、病室や仕事の引継ぎをどうしようなどといったこと。
週末には見舞いに行くからそのときにでもゆっくり考えよう、くらいの話だったでしょう。


それから1時間ほど経って、J23の携帯が鳴りました。
話の続きがあるのか?くらいの気持ちで電話を取ったと思います。

 「病院から連絡が入って、危篤だって」


たった今、退院の話をしてたところなんだよ。
時間はかかっても確実に回復しているって言ってたんだよ。


6月8日に日付が変わり、しばらくしてJ23の携帯が鳴りました。

何も言えずに涙がこぼれたのだけ覚えています。



あまりにも突然の出来事で、哀しみを実感する間も与えられないまま慌しく時間が過ぎてしまいました。
気が付くと四十九日の法要も終わり、流れてしまった時間の長さに驚いているところです。



とても存在感のある人でした。
『研究熱心な文学者』と『やんちゃ坊主』が同居した不思議な魅力のある人。
話が面白くて、どれだけ聴いていても飽きることがありませんでした。
大好きな教授の講義を聴いてる学生の気分と言ったらいいかしら。
笑顔が素敵だったのも忘れられません。

『J23の父上』だけど、私のことも娘のように可愛がってくれました。
18年前に父親を亡くした私には、「お父さん」と呼んでもいい人が居てくれるってことが幸せでした。

少し落ち着くと、淋しさが急激に襲ってくる感じで苦しいです。



お父さんは音楽好きで、クラシックに造詣が深い人でした。
ピアノとヴァイオリンが上手だったと聞いています。
(残念ながら私は聴かせてもらう機会には恵まれませんでした)

なかでも特別に気に入っていたのは ”モーツァルトのピアノ協奏曲第11番”。
学生時分からずっと弾き続けている曲で、家族で知らない人は居ないほど。
とても穏やかな優しい旋律の曲です。
 
お父さんを見送るときに、この曲を流すことにしました。
棺の中には長年愛用した楽譜を入れて。

曲が流れ始めた途端、号泣が聞こえました。
お父さんと関わりが深い人たちにとっては、たまらなく切なく愛おしい曲だったでしょう。

精一杯の見送りが出来たと思います。



最後の曲・・・
自分のときは何を流してもらえたら嬉しいかなぁなんて真剣に考えてしまいました。

母親からは「縁起でもないこと言わないで!!」と烈火のごとく怒られましたけど。
そりゃそうよね。スマン、母。こっそり親孝行するから許せ・・・。